[古典名詩] 「聖木曜日(経験)」 - 聖なる日に映し出される貧困と社会への問い

Holy Thursday (Experience)

Holy Thursday (Experience) - William Blake

「聖木曜日(経験)」 - ウィリアム・ブレイク

厳しく聖なる日々を照らし、貧困を問いかける詩

Is this a holy thing to see
これは聖なる光景と言えるだろうか
In a rich and fruitful land,
豊かで実り多き土地において、
Babes reduced to misery,
幼子たちが悲惨な状態に追いやられ、
Fed with cold and usurous hand?
冷たく貪欲な手によって糧を与えられているのを?
Is that trembling cry a song?
その震える声は歌と呼べるのか?
Can it be a song of joy?
それが喜びの歌になり得るのか?
And so many children poor?
これほど多くの子どもたちが貧しさに苦しむのは、
It is a land of poverty!
まさに貧困の地ということではないのか!
And their sun does never shine,
彼らの太陽は決して輝かず、
And their fields are bleak & bare,
彼らの野原は荒涼として何もなく、
And their ways are fill'd with thorns:
その道には茨が生い茂っている。
It is eternal winter there.
そこは永遠の冬が支配する場所なのだ。
For where-e'er the sun does shine,
なぜなら、太陽がどこであれ輝き、
And where-e'er the rain does fall,
雨がどこであれ降り注ぐところでは、
Babe can never hunger there,
幼子が飢えることなど決してなく、
Nor poverty the mind appall.
貧困が心を脅かすこともないはずだからだ。

『聖木曜日(経験)』は、ウィリアム・ブレイクの『経験の歌』に収録された詩で、同じタイトルの『無垢の歌』に対比する形で書かれています。ここでブレイクは「聖木曜日」という名称とは裏腹に、貧困と社会の冷淡さを鋭く告発し、その光景を“それは本当に聖なるものと言えるだろうか”という問いかけを通じて突きつけます。

詩の冒頭では、豊かな土地に生きる幼子たちが悲惨な環境にあり、“冷たく貪欲な手”によって糧を与えられていると描写されます。これは社会的弱者である子どもたちが救いを求めても、慈悲ではなく利己的な態度で接されている姿を暗示し、宗教行事が行われる一方で貧困が放置されている不条理を強調しています。

続く行では、震える声が“喜びの歌”と呼べるのかと問い、貧しい子どもたちで溢れるこの土地が「貧困の地」であると断じます。『無垢の歌』の版では、子どもたちの行進が花や子羊のようにたとえられ、純粋な祈りや祝祭の光景が美しく描かれました。しかし、ここでは同じ“聖木曜日”であっても、現実には多くの子どもが苦しみにさらされている事実を強調し、明るい理想像とのギャップを読者に突きつけるのです。

さらに詩の後半では、子どもたちが“永遠の冬”に閉ざされ、太陽が決して差さない世界として表現されます。その暗喩的なイメージは、困窮と無関心が続く状況を“冬”になぞらえ、そこから抜け出す手だてがない社会を浮き彫りにします。しかし、太陽が降り注ぎ、雨が豊かに降れば、飢えも貧困もなくなるはずだという主張によって、人間の意志や行動次第で状況が変わる可能性をさりげなく示唆しているとも読めます。

ブレイクは、こうした詩作を通して、宗教的儀式や概念が表面的なものにとどまってしまい、本来の慈悲や愛が行き届かない社会構造を繰り返し批判しました。『経験の歌』の作品群は、社会や制度の矛盾、そして無関心がもたらす悲しみに焦点を当てており、「聖木曜日(経験)」もその一端を担う重要な詩です。読み手は、聖なる日とされる木曜日に実際に目を向けられない弱者の現状を見出し、真の信仰や慈悲とは何かを考えさせられます。

要点

• 『無垢の歌』版との対比で、宗教行事と実際の貧困が強く対照的に描かれる
• “冷たく貪欲な手”や“永遠の冬”といった比喩が社会の無関心を象徴
• 形式的な聖性と真の慈悲心との落差を強調
• ブレイクの社会批判と宗教的問いかけが読み手に深い反省を促す

楽しい時は時間が経つのが早いですね!
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