[古典名詩] 調張籍 - 李白・杜甫への敬意と詩人の嘆きを込めた短詩

Teasing Zhang Ji

调张籍 - 韩愈

調張籍 - 韓愈

李杜を仰ぎ見て詩人の嘆息と諭しが交差する

李杜文章在,
李と杜の文章はいまだ健在であり、
Li and Du’s writings endure even now,
光焰万丈长。
その輝きは万丈の光を放つ。
Their brilliance stretches like flames soaring ten thousand fathoms high.
不知群儿愚,
愚かなる者たちにはそれがわからず、
The ignorant masses fail to comprehend,
那用故谤伤。
ことさらに誹謗し、傷つけようとする。
So they deliberately slander and attempt to discredit.
蚍蜉撼大树,
蟻が大樹を揺らそうとするようなもので、
It is as ants trying to shake a towering tree,
可笑不自量。
あまりにも身の程知らずで滑稽だ。
Laughable in their overestimation of themselves.
伊我生苦晚,
ああ、私の生まれはいかにも遅く、
Alas, I was born too late,
对此成惆怅。
この光彩を目の当たりにしては、ただ愁いに沈むばかり。
And can only brood in sorrow upon witnessing such brilliance.

「調張籍」は、唐代の文人・韓愈が、詩人仲間である張籍をからかう(あるいは励ます)形をとりつつ、実際には李白と杜甫という二大詩人の偉大さを称え、その輝きに比して周囲の批判や誹謗がいかに無意味かを説く詩です。李白・杜甫が当時の文壇や後世に与えた影響力は圧倒的であり、韓愈は自分がもっと早く生まれて彼らと同時代を過ごせていたならどんなに良かっただろうと嘆きつつ、後進の詩人に対しても「本質的な才能を貶めるような言葉に惑わされるべきではない」というメッセージを示唆しています。

一・二句目で「李杜文章」の存在を高らかに謳い上げ、「光焰万丈長」という壮大なイメージによって、その詩才がいまだに燦然と輝き続けているさまを誇張しています。李白の奔放な想像力や杜甫の深い社会意識は、数ある唐詩の中でも格段に異彩を放ち、韓愈自身も大きな影響を受けていました。

三・四句目では、彼らの偉業を理解しない者たちを「群儿愚(愚かな子ども)」と呼び、その誹謗中傷がいかに的外れであるかを示します。これは、優れた作品を真正面から評価できない狭量さや、流行や権威に盲従する読者・批評家への批判といえるでしょう。続く五・六句目では、それを「蚍蜉撼大树(蟻が大樹を揺らす)」という強烈な比喩で嘲笑することで、その不当性を際立たせています。

終盤の「伊我生苦晚,对此成惆怅」では、自分が李白や杜甫の時代より後になって生まれ、一緒に活動できないことへの無念さがにじみ出ています。韓愈自身も唐宋八大家の一人として後世に大きな影響を与えた人物ですが、それでもなお、李白・杜甫の存在感には圧倒され、少し遅れてきた者の嘆きや羨望を抱いていたのでしょう。この点は、同時代の詩人たちだけではなく、現代でも過去の天才に憧れる後進が抱く感情と通じる普遍性を持っています。

詩題の「調張籍(張籍を調す)」は、字面上は軽くからかうようにも見えますが、実際は二大詩聖への敬慕を示すと同時に、才能を認めず誹謗ばかりをする環境に対して醒めた視線を注ぐ作品と考えられます。張籍の才能を評価しながらも、それを理解しない周囲への苛立ちや、李・杜の偉業を頂点に据えて“真の詩”の在り方を説く韓愈の心情がこもった名短詩と言えるでしょう。

要点

李白・杜甫の業績の偉大さと、それを正当に評価できない世の姿を対比的に描いている。韓愈の“生まれた時代が違えば彼らに直接教えを乞えたのに”という嘆きは、偉大な先人に憧れる全ての後進詩人に通じる普遍的な思いでもある。タイトルの「調張籍」は一見ふざけた口調に見えるが、実際は才能ある詩人を守り、真の詩の光を認めよという強いメッセージを含む。

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