[古典名詩] 祭十二郎文 - 失われた親族への哀悼と自省

A Funeral Oration for My Twelfth Younger Cousin

祭十二郎文 - 韩愈

祭十二郎文 - 韓愈

亡き者を悼み深く悲しむ魂の叫び

嗟乎!吾少孤,及长,不省所怙;惟兄嫂是依。兄嫂去矣,于今无可告者。
ああ! 私は幼くして父母を失い、長じても頼るべき存在を知らず、ただ兄とその妻を頼みとしていた。ところが兄夫婦もすでにこの世を去り、今となっては打ち明ける相手もいない。
Alas! I lost my parents young and, upon growing up, had no one to rely on but my elder brother and his wife. Now they, too, have passed away, leaving no one to confide in.
吾年未四十,而视茫茫,而发苍苍,而齿牙动摇,旦夕且死,吾其谁告?
私の年はまだ四十にもならないのに、視力は衰え、髪は白く、歯はぐらつき、明日にも死んでしまいそうだ。そんな私がいったい誰に語れようか。
I am not yet forty, yet my vision is blurred, my hair graying, my teeth loose. I might die any day now—who is there for me to tell this to?
而吾兄之子于漆,备矣而在其室,是以区区不能忘也。
そのうえ、兄の子である「十二郎」は今も家の中にいたはずなのに、すでにこの世から去ってしまった。そのことがありありと思い出され、どうしても忘れることができない。
Moreover, my elder brother’s son, Twelve-lang, once lived in this house. Though he too is gone, his memory lingers, and I cannot forget him.
噫!人之有亲,疾痛怵惕,不可忍视;况隐忧幽欢,为兄弟父子者乎?
ああ、人は身内を持つからこそ、その病や苦しみに胸を痛め、見過ごすことなどできない。それが兄弟や親子の間柄であれば、なおさらのことだ。
Alas! When kin fall ill or suffer, one’s heart cannot bear to look away. Even more so between brothers or between father and child.
自余去年来,此恨益集。吾上恐负朝廷,下恐愧兄嫂。
私が昨年都を離れてから、嘆きはますます募るばかりだ。上にあっては朝廷に申し訳なく、下にあっては兄や嫂に対して顔向けできぬ思いである。
Since I left the capital last year, my sorrow has only grown. I feel I have failed the court above and shamed my brother and his wife below.
而况吾未能克理其家,使朝夕纳其馀喘,进其馀力,而淹留于众人之间,三年匪解。
さらに、家業をきちんと整えることもできず、朝夕わずかに息をつく程度の余力しか兄弟に与えられなかったうえに、世間の中に埋没するように三年も過ぎてしまったのだ。
Moreover, I failed to properly manage our household, leaving them with mere scraps of breath and strength. Thus, I remained adrift among the masses for three years without respite.
呜呼!十二郎!汝缌麻之亲也,既随而化矣。
ああ、十二郎よ。あなたは私にとっては近しい親族であったのに、すでにこの世を離れてしまった。
Alas, Twelve-lang! You, my close kin, have departed from this world forever.
吾烹羊宰牛,祭于其庭,曰:“尚飨!”汝岂能饮食哉?吾以此慰吾悲,汝其知之。呜呼!尚飨!
私は羊を煮、牛を屠り、庭先で祭って「どうぞお召し上がりを」と呼びかける。しかしあなたが食べられるはずもない。ただこうして供え物をし、私自身の悲しみを慰めているのだ。わかってくれるだろうか。ああ、どうか召し上がれ!
I have prepared lamb and slaughtered cattle to offer in the courtyard, saying, “Partake of this feast!” But you cannot eat or drink now. This is my small way of easing my own sorrow—may you understand. Alas! Partake!

「祭十二郎文」は、唐代の文人・韓愈が亡くなった甥(十二郎)を悼むために書いた祭文(追悼文)です。詩ではなく散文の形式ですが、深い情感と鋭い筆致をもって愛する者を失った嘆きと悔恨、さらに自らが歩んできた人生への自省が語られています。

序盤では、幼くして孤児となった自身の境遇を回想しながら、唯一の頼みであった兄夫婦も先立ち、今や寄る辺のない心境を吐露します。そんな心の支えだった兄の子・十二郎までが亡くなり、身近な血縁を次々に失っていく苦しみが切々と語られます。そこには、家業を整えることもかなわず、親族を十分に世話しきれないまま過ぎた自責の念がつづられ、まるで自分の人生が取り返しのつかない失敗の連続であったかのような思いがにじみ出ています。

中ほどからは、人の生き死にという不可避の運命に対する嘆きと、亡き者を思う行為の空しさも強調されます。用意された供物を亡き人が口にできないのは承知の上でありながら、それでも残された側としては行わずにいられない。儀礼の背後にあるのは、生者が抱える後悔と愛惜、そして少しでも心の安らぎを得ようとする思いです。

韓愈は儒家としての道徳観や社会的責務を重んじつつも、個人的な情愛や悲痛な思いをけっして隠さずに表現しようとしました。官人である立場上、朝廷への責務と家族への責任を両立できなかった悔恨が強くにじみ出ており、人の力ではどうしようもない運命や生死の問題に真正面から向き合いながら、筆を執っています。

本文の締めくくりでは「尚飨(なおまんまとせよ)」という祭祀の決まり文句が繰り返され、死者に食事を勧める形で懺悔と追悼の念が表現されています。これは当時の祭祀文化を踏まえた典型的なスタイルでもありますが、その奥底には決して癒えない遺族の悲しみや、死者に対する償いきれない想いが凝縮されています。読めば読むほど、人と人との別離がいかに痛ましくも避けられないものであるか、そしてその別離に直面する生者の苦悩がいかに深いかを思い知らされる作品です。

韓愈は唐宋八大家の一人として散文分野で高く評価される文人ですが、こうした祭文においても並外れた表現力を発揮し、時代を超えて読む者の胸を打つ普遍的な悲哀を描き出しています。生死の理不尽さや愛する人との別離を経験した者ならば、この文章に秘められた嘆きと痛切な感情に強く共感することでしょう。まさに文人が放つ魂の叫びともいえる作品です。

要点

大切な者を失った痛みを、儀礼や言葉を通じて表現する人間の普遍的な営みを描き、死別に対する深い悲しみと後悔を鮮やかに伝える。官人でありながら家族への責任を果たしきれなかった懊悩が滲み出ており、読者は人間味あふれる韓愈の心情に触れられる。死者を悼むことで自らを省み、儒家の道徳観や人生観をあらためて問い直す契機ともなる文学作品である。

シェア
楽しい時は時間が経つのが早いですね!
利用可能な言語
おすすめ動画
more