[古典名詩] 「聖木曜日(無垢)」 - 純粋な子どもたちの儀式に映る祈りと救いの情景

Holy Thursday (Innocence)

Holy Thursday (Innocence) - William Blake

「聖木曜日(無垢)」 - ウィリアム・ブレイク

清らかな子どもたちの行進が描く祝福と希望

'Twas on a Holy Thursday, their innocent faces clean,
聖木曜日のこと、あどけない顔は汚れひとつなく、
The children walking two & two, in red & blue & green,
子どもたちは赤や青、緑の服を着て二列になって歩いていた。
Grey headed beadles walk'd before, with wands as white as snow,
灰色の髪をした教会役人たちが、雪のように白い杖を手に先導し、
Till into the high dome of Paul's they like Thames waters flow
やがてセント・ポール大聖堂の高いドームへと、テムズ川の流れのように続いて行った。
O what a multitude they seem'd, these flowers of London town!
ああ、なんと大勢なのだろう、ロンドンの花々のような子どもたちよ!
Seated in companies they sit with radiance all their own.
班ごとに座る彼らは、それぞれが独特の輝きを放っている。
The hum of multitudes was there, but multitudes of lambs,
そこには人々のざわめきがあったが、それは子羊の群れのようにやわらかなものだった。
Thousands of little boys & girls raising their innocent hands.
何千人もの少年少女が、無垢な手を高らかに挙げていた。
Now like a mighty wind they raise to heaven the voice of song,
今や彼らは力強い風のごとく歌声を天へと響かせ、
Or like harmonious thunderings the seats of heaven among,
あるいは調和した雷鳴のように、天上の座を揺るがした。
Beneath them sit the aged men, wise guardians of the poor.
その足元には年老いた男たちが控えており、貧しき者を導く賢者のように座っている。
Then cherish pity, lest you drive an angel from your door.
憐れみの心を大切にせよ、さもなくば天使を自らの戸口から追い払うことになろう。

ウィリアム・ブレイクの『聖木曜日(無垢)』は、『無垢の歌(Songs of Innocence)』に収録された詩のひとつで、当時のロンドンで行われていた「ホーリー・サーズデイ」の儀式をモチーフにしています。この日、チャリティ・スクールの孤児や貧しい子どもたちがセント・ポール大聖堂へと集まり、行進する光景が描かれています。ブレイクはその場面をあたかも花々や小羊の群れにたとえ、清らかで無垢な輝きに満ちた子どもたちの姿を詩に焼き付けました。

第一連では、子どもたちが色とりどりの服を着て整然と歩き、年配の教会役人(ビードル)が先導して大聖堂へと入っていく様子が描かれます。灰色の髪をした彼らが雪のように白い杖を携え、それに続く子どもたちはテムズ川のように途切れることなく流れ込んでいくイメージです。この流動的な描写によって、子どもたちの行進が美しく神秘的な行為であることが強調されています。

第二連では、子どもたちの数が「ロンドンの花々」と表現され、まさに大聖堂内が色とりどりの花畑になるかのようなビジュアルが展開されます。同時に、子どもたちは「子羊の群れ」とも例えられ、柔らかく無害な存在として描かれています。ここでの「子羊」はキリスト教的にも純粋さや救済の象徴であり、子どもたちの無垢さが世界の美や可能性を体現しているかのように読めます。

第三連では、彼らが力強い歌声を天に届ける場面が印象的です。その歌声は調和のとれた雷鳴のように堂内を満たし、天上にまで届くかのように力強く描かれています。その足元には「貧しき者を導く賢者」に例えられる年老いた守護者たちが座り、子どもたちの無垢な祈りや歌に深い意義を与えています。最後の行で示される「憐れみの心を大切にせよ」という呼びかけは、この子どもたちの姿を見守る大人へ向けたメッセージでもあり、世の中の弱き者への思いやりを持たねば、結局は自らのもとを訪れる救いを失ってしまうという警鐘にも取れます。

この詩には、同じ『無垢の歌』に収録されている「煙突掃除人」などと同様に、貧しい子どもたちが登場します。しかし、そこに描かれる光景は単なる悲惨さや絶望ではなく、子どもたちの純真さが集まることで生じる神聖な力に焦点が当てられています。社会的な不公平を意識させながらも、ブレイクは子どもたちの行進を通して、人間の魂が持つ美と可能性を示唆しているといえます。無垢の眼差しで見つめれば、困難な現実の中にも希望や救いを見出すことができるという思想が、この詩の根底に流れています。

ブレイクは、こうした子どもたちの姿勢を「無垢」という観点から描き、その対極となる『経験の歌』において社会の現実や欺瞞を厳しく批判します。二つの視点を往復することで、読者は無垢と経験がせめぎ合う人間存在の複雑さを改めて考えさせられるでしょう。『聖木曜日(無垢)』は、その中でも特に鮮明に、純真な子どもの祈りに潜む崇高さと、彼らを取り巻く大人たちへのメッセージを映し出した一篇となっています。

要点

• ロンドンのチャリティ・スクール児童の行進を、花や子羊に喩えた美しい比喩が印象的
• 彼らの祈りと歌声が示すのは、純真さや希望の象徴
• 「憐れみの心」を持つことの重要性を、社会全体に呼びかけるメッセージ
• 『無垢の歌』と『経験の歌』の対比を考察する上で重要な作品

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