再游玄都观 - 刘禹锡
再游玄都观(さいゆう げんと かん) - 劉禹錫(りゅう うしゃく)
再游玄都观 - 刘禹锡
再游玄都观(さいゆう げんと かん) - 劉禹錫(りゅう うしゃく)
本作「再游玄都观(さいゆう げんと かん)」は、唐代の詩人・劉禹錫(りゅう うしゃく)が再び玄都観を訪れた時の感慨を綴ったもので、たった四句の中に時の移ろいと自らの心情が巧みに凝縮されています。
冒頭の「百亩庭中半是苔」は、広大な庭の半分が苔に覆われている情景を示し、人の手が及ばなくなった時の流れを感じさせます。これと対比するように続く「桃花净尽菜花开」では、かつての華やかな桃の花が散ってしまい、代わりに菜の花が咲き誇る様子が描かれ、自然の循環や移り変わりが象徴的に示されます。
三句目の「种桃道士归何处?」では、桃を植えた道士――かつての場所を美しく保ち、あるいは雅趣を楽しんだであろう人物がどこへ行ってしまったのか、過去の栄華を担った存在が今や不在である事実を嘆くように問いかけています。ここには、作者の胸中に広がる空虚感や、盛衰のはかなさが微妙に滲んでいます。
最終句「前度刘郎今又来。」は、「前回やって来た私(劉郎)がまた訪れた」という自己言及によって締めくくられます。桃が散り、菜の花へと変貌を遂げた庭や道士の不在を目の当たりにしながらも、本人は再び同じ場所を踏みしめている――そこに、過去と現在との対照や、時を経ても変わらぬ自我の存在を感じ取ることができるでしょう。
この四句の中には、かつての華やぎが失われていく無常感と、なおも続く生命や人の営みが暗示されています。唐代の詩人たちにとって、庭や花木はしばしば人の世の栄枯盛衰を映す象徴でした。劉禹錫は左遷など波乱の多い人生を歩んだ人物でもありますが、その経験を背景に、過去と現在を対比することで、より深い詩情を表現しています。「かつての道士はいないが、自分は再び来た」という宣言は、一見軽やかにも見えますが、実は人生の苦楽を経た作者の強い存在感や達観を感じさせるものでもあります。
結果として、本作は自然と人間、過去と現在とが織りなす無常と再生を、わずか四句という簡潔な形式で描いてみせる名品と言えるでしょう。華やぎの裏側に見え隠れする喪失と、そこにしっかりと立つ自分自身という対比が、読む者に余韻深い感慨をもたらします。
・かつての華やかな桃の花が消え、菜の花へと移ろう景色に無常を感じる
・道士の不在を嘆くことで、失われた過去や変わりゆく世の中を象徴
・「今また来た」という作者自身の姿に、時間を経ても変わらない自我の存在を強く示唆
・簡潔な構成であるがゆえに、自然と人生の盛衰を深く描き出す
・唐代の詩の美や人生観を端的に味わえる名作