归嵩山作 - 王维
归嵩山作(き すうざん さく) - 王维(おうい)
归嵩山作 - 王维
归嵩山作(き すうざん さく) - 王维(おうい)
この詩は、王維(おうい)が人生のある時点で嵩山(すうざん)へ帰る際の情景と心境を七言律詩の形で描いたものです。嵩山は中国五嶽の一つであり、古くから道教・仏教双方の聖地として崇められ、文化の中心地でもありました。詩の中には、長閑な川沿いの風景や秋の山々、往来を行く馬や帰巣の鳥の姿が、静かで雄大な自然のイメージとともに表れています。
冒頭に「清川帶長薄」とあるように、澄んだ川と長く続く洲との組み合わせが穏やかな情景を生み出し、その後に続く「車馬去閑閑」では、人々が慌ただしくもなく、ゆったりと移動している姿が見えてきます。王維はここで騒がしさとは無縁の世界を設定し、まるで旅の心に平穏を与えるような雰囲気を醸し出しています。
中盤の「流水如有意,暮禽相與還。」は、自然界の動きに詩人が深い意味を見いだしていることを示す部分です。流れる水がまるで人の意志をもつかのように感じられる、という情景は王維独特の詩風であり、彼が愛した「詩中に画あり、画中に詩あり」の世界を構成しています。また、夕暮れ時の鳥たちが互いに帰巣していく様子も、作者自身の帰郷と重なるモチーフとして印象的です。
結句の「迢遞嵩高下,歸來且閉關。」では、はるかなる嵩山の麓へたどり着いた詩人が「門を閉じる(閉関)」ことを誓います。これは、世間の喧噪を遠ざけ、自然と一体化した静寂の境地に身を置きたいという、王維の隠逸的な志向を示していると言えます。唐代で高官を歴任しながらも、しばしば山水の世界にこもって自省し、芸術を楽しむ姿勢が、まさにここに反映されているのです。
全体を通じて、『归嵩山作』は穏やかな流れの中に大きな余韻が漂う作品であり、秋の夕暮れを背景にした自然の移ろいと、作者の内面に生まれる静かな決意が巧みに溶け合っています。王維の詩業では、世俗の栄達と山水への志向がしばしば交錯しますが、本作においては特に「最後は嵩山に帰って門を閉ざす」という決断が明確に謳われ、読後には山林での隠逸生活への憧れと、人生の深い悟りの気配が感じられるのです。
• 川辺の長閑な風景と秋山の光景が、静かな旅路を演出
• 流れゆく水や帰巣する鳥に象徴される、自然との一体感
• “門を閉ざす”結句に込められた、世俗から離れたいという王維の隠逸願望
• 唐代高官でありながら山水の奥深さに心を寄せた詩人の心情が凝縮
詩の中の静けさが素晴らしい。
短いながらも奥深い詩だと思う。
この詩には癒しの力がある。
歴史的な建造物の保存問題を考えるとき、この詩に出てくる「荒城」の描写が頭をよぎる。過去と現在をつなぐ重要な鍵なのかもしれない。
詩から聞こえてくるような静けさ。
古代の詩が現代にも通じるメッセージを持っていることに驚かされる。特に「帰る」というテーマは、今のグローバル社会においても重要な意味を持つ。
悠久の時の流れを感じる。
最近の中国映画で嵩山を舞台にした作品があり、それを観た後にこの詩を読むと、映像と文字が重なり合って別の感動があった。
閉ざすという行為に何か考えさせられる。
この詩の中で特に印象的なのは、時間の流れと空間の広がりが巧みに織り込まれている点です。「清川带长薄」で示される川の流れは絶え間なく続く時間の象徴であり、そこに「车马去闲闲」という人間の活動が加わることで、動と静のバランスが生まれています。また、「荒城临古渡」では廃墟となった城と古くからある渡し場という具体的な地点が提示され、読者はそこから悠久の時の流れを感じ取ることができます。「落日满秋山」というフレーズは季節感とともに、日に沈む太陽が持つ儚さや終焉を迎える美しさを想起させます。このような描写を通じて、王維は私たちに生命の有限性について考えさせようとしているのではないでしょうか。さらに「迢递嵩高下、归来且闭关」において、彼が嵩山に戻ることを選んだ理由を探ると、世俗の煩わしさから逃れたいという願望が見て取れます。閉ざされた門は外部からの干渉を遮断するだけでなく、自己探求のための神聖な領域を築くものでもあります。このような構造化された言葉の積み重ねにより、詩全体が深い哲学的含蓄を持つものとなっています。
秋の日暮れの寂しさが伝わってくる。
山水画のような詩の世界観が素晴らしい。
荒城と古渡の対比が美しい。
王維と同時代の詩人たちの作品と比較してみると、彼の自然描写の繊細さが際立っている。特に孟浩然の田園詩と比べると興味深い。
荒城や古渡といった言葉から、歴史の重みを感じずにはいられない。過去の栄華が今は静かな風景として残っている様子は、まさに日本各地の古い町並みにも通じるものがある。
王維らしい静寂感が漂う作品だ。
シンプルな言葉で深い意味を伝えている。
最近訪れた古都の風景が、この詩の世界と重なって見えた。特に夕陽に照らされた山々は、まさに「落日満秋山」そのものだった。
落日の描写が特に印象深い。
「帰る」というテーマは普遍的だが、この詩における帰郷の描写は特別なものを感じる。杜甫の戦乱の中での帰郷詩と比べると、その穏やかさが際立っている。
閉関という言葉に禅の精神を感じる。
王維の描く自然は現代にも通じるものがある。彼の時代から変わらない日本の四季の美しさと重ねて読んでみると、さらに深みが増す作品だと思う。
嵩山の風景が目に見えるようだ。
王維の詩には禅的な思想が色濃く反映されており、本作『帰嵩山作』も例外ではありません。まず、「流水如有意」では水の流れがまるで意識を持っているかのように描写されていますが、これは仏教における因果律や万物相互の関係性を暗示していると考えられます。つまり、すべての存在は独立しておらず、互いに影響を与え合いながら存在しているという教えです。また、「暮禽相与還」では鳥たちが仲良く帰っていく様子が描かれていますが、これもまた共同体としての調和を表していると言えるでしょう。次に「荒城临古渡、落日满秋山」という行では、崩れかけた城や黄昏時の山々といった衰退したイメージが目立ちます。しかし、それらは決して否定的なものではなく、むしろ無常観に基づく一種の解放感を与えてくれるのです。そして最後の「迢递嵩高下、归来且闭关」において、彼が嵩山へ戻ることで外界との接触を断ち、内的な瞑想に入る決意を表明しています。これは修行僧が坐禅を行う際に外界の雑念を排除し、純粋な意識状態を目指す行為と非常に似通っています。このように、王維の詩は単なる文学作品としてだけでなく、宗教的・哲学的な視点からも深く読み解くことができるのです。
秋山の情景が目に浮かぶようだ。
暮れ行く鳥たちの姿が印象的だ。
王維の「帰嵩山作」は、自然との調和と内面的な静寂を描いた作品です。詩の冒頭で清らかな川と広がる平原が描写され、車馬がゆっくりと進む情景から始まります。この場面は単なる風景ではなく、詩人の心象風景そのものを反映しているように感じられます。「流水如有意」という一節では、流れる水が意志を持っているかのような表現が用いられています。これは自然界の動きが詩人の感情や思考と呼応していることを示唆しており、彼自身の人生における旅路とも重ね合わせることができるでしょう。また、「暮禽相与還」という鳥たちが夕暮れ時に連れ立って帰っていく様子は、一日の終わりと共に訪れる安息感を伝えています。さらに荒れた城や古い渡し場といった歴史的な要素も取り入れられ、過去と現在が交差するような奥行きのある世界観を作り出しています。そして最後に、「迢递嵩高下、归来且闭关」という結びの部分では、嵩山へと帰ることで外界から距離を置き、自らの内面へと向き合う姿勢が強調されています。全体を通して、喧騒から離れ、自然の中に身を委ねることで得られる精神的な平穏がテーマとなっているのです。
帰る場所がある幸せを感じる一編。
ニュースで見る中国の嵩山の美しい風景を、この詩を通じてより深く理解できた気がする。実際に訪れてみたいと思わせる力がある。
流水の流れに人生の無常を見た。
近年の環境問題を考えると、この詩に描かれた自然との共生の思想がますます重要になっているように思う。私たちはもっと自然と向き合うべきだ。
現代アートの展示で、この詩をテーマにしたインスタレーションを見たことがある。伝統的な詩が現代芸術と融合する面白さを感じた瞬間だった。
世界各地で進行する都市化によって失われていく自然を思うとき、この詩が教えてくれる自然との向き合い方に改めて気づかされる。
この詩の持つ「静寂」と「帰還」というテーマは、現代人の心の拠り所になるのではないかと思う。都市化が進む中で、ますます必要とされる価値観かもしれない。
コロナ禍で多くの人が故郷に帰ることの大切さを再認識した。この詩を読むと思い出すのは、そんな時代背景かもしれない。
この詩を読むたびに、日本の古い文学作品との共通点を感じる。特に『万葉集』に収められた山岳信仰に関連する歌々と通じるものがある。
自然との調和が感じられる名作。
詩人の心情がよく表現されている。
本詩の「流水如有意」という表現には、自然界のすべてが意思を持っているかのような神秘的な感覚があり、それは他のどの詩人とも違う王維独特の視点である。李白の豪放磊落な詩風と比較すると、その違いが際立つ。
この詩を読むと故郷が恋しくなる。
王維の自然描写はいつも心を落ち着かせてくれる。