[古典名詩] 登岳陽楼(とうがくようろう) - 湖上の高楼に募る嘆きと憧憬

Ascending Yueyang Tower

Ascending Yueyang Tower - Du Fu

/登岳阳楼 - 杜甫/

湖畔で交差する孤独と遠い希望

昔聞洞庭水,
かつて洞庭湖(どうていこ)の名を聞いたものの、
Long ago, I heard of Dongting Lake’s renown,
今上岳陽樓。
今こうして岳陽楼に登った。
Now I ascend the Yueyang Tower,
吳楚東南坼,
呉と楚の領地は東南に裂け、
Where Wu and Chu lands diverge to the southeast,
乾坤日夜浮。
天地は日夜にただ浮かび続ける。
Heaven and earth seem to drift day and night.
親朋無一字,
友や親族からの便りは一通もなく、
No letter arrives from family or friends,
老病有孤舟。
老いや病を抱え、ただ一艘の小舟のみ残されている。
Growing old and sick, I have but a lone boat for company.
戎馬關山北,
戦馬は関山(かんざん)の北方に集い、
Warhorses muster north of the frontier pass,
憑軒涕泗流。
欄干にもたれて、わたしの涙はとめどなく流れ落ちる。
Leaning on the railing, my tears stream without end.

杜甫(とほ)が残した詩の中でも、『登岳陽楼』は晩年の心境が強く反映された名作として知られています。岳陽楼は中国湖南省岳陽市にあり、洞庭湖(どうていこ)のほとりにそびえる名楼です。古くから多くの詩人がここを訪れ、湖と楼をめぐる景色を詠んできましたが、杜甫の詩は時代背景と相まって格別の重みをもっています。

まず、冒頭で「昔聞洞庭水,今上岳陽樓。」と、自身がこれまで伝え聞いていた名勝地にようやく足を運ぶことができた喜びが感じられます。しかし、同時に続く句で呉や楚、さらには天地の大きさが描かれ、戦乱の時代にあって、自分の小ささや無力さが痛感される構成になっています。

中盤に現れる「親朋無一字,老病有孤舟。」には、安史の乱(あんしのらん)による動乱の中で散り散りになった親族や友人からの便りが途絶え、老いと病を抱える孤独な状況がにじみ出ています。杜甫はしばしば他者への思いや社会批判など、外向きの視線で詩を綴りますが、本作では個人としての苦悩や深い哀愁が強調されており、より内面的な嘆きを強く感じさせます。

結句の「憑軒涕泗流」は、そうした絶望感が極まった姿を示す印象的な表現です。故郷や家族から遠く離れ、戦の不安定さに翻弄されつつ、老いて体も思うようにならないまま、広大な湖を見下ろして涙する詩人の姿がありありと浮かびます。洞庭湖の壮大さや岳陽楼の歴史を想うほどに、自らの儚さや苦境を痛感する彼の心情が一気に噴出するのです。

一方で、この詩は単なる悲嘆だけではなく、そこはかとない憧れや美しさも含んでいます。天下の大湖と名楼を望む視点には、自己の辛酸な境遇とは対照的に、悠然たる自然と歴史の営みを尊ぶ精神が宿っています。杜甫の作品には重苦しいトーンのものが多い反面、こうした自然や名勝地への詠嘆は読者に壮大な風景を感じさせ、詩自体の格調を高める役割を担っています。

総じて、『登岳陽楼』は杜甫晩年の心情を示す点で非常に重要な位置を占めており、戦乱に疲弊しながらも名勝の地を目の当たりにした際の感慨を、簡潔ながら深く、かつ叙情豊かに表現しています。古来より多くの文人が注目したこの詩は、杜甫の「詩聖」としての一面だけでなく、孤独な人間としての素顔をもうかがわせる、哀切と崇高さが融合した名編といえるでしょう。

要点

• 湖と楼という広大な景観を前に、自己の無力さを痛感する杜甫の内面
• 親族や友人からの消息が途絶えた孤独と老病の苦しみ
• 岳陽楼が歴史的名所であるがゆえの景観の壮大さと、そこに投影される個人的な嘆き
• 自然の尊大さと人生の哀歓を融和させる杜甫の詩的手法が凝縮された一篇

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